大阪簡易裁判所 昭和24年(ハ)101号 判決
原告 野沢コツル
被告 梶山善雄
一、主 文
被告に対し原告に大阪市住吉区粉浜東之町四丁目六十三番地所在の西向木造瓦葺二階建家屋一棟一戸を明渡し、昭和二十四年五月二十七日より右家屋明渡済にいたるまで一ケ月金六十三円七十五銭の割合による金員を支拂うことを命ずる。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は原告に於て金五千円の担保を供するときは仮に執行することができる。
二、事 実
原告訴訟代理人は主文第一、二項記載と同旨の判決並びに担保を條件とする仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、原告は昭和二十年三月被告に対し主文第一項記載の家屋(以下本件家屋と略称す)を賃料一ケ月金二十五円五十銭毎月末日支拂い受ける定めにて賃貸した。ところが原告は同二十三年十月五日被告方に於て口頭を以て被告に対し、後記の正当事由に基き解約の申入を爲したので本件賃貸借契約は右申入の日から六ケ月を経過した同二十四年四月五日の経過により終了した。その正当の事由というのは、原告は数え年当七十五年(明治九年生)になる孤独の老寡婦であつて、戰時中老幼婦女子の疎開政策が行はれた際、老齢者として強制的に疎開させられたのであるが、終戰後疎開先から引揚げて一時甥に当る訴外北浦秀一方(吹田市田中町所在)に寄寓したが、その住居は同訴外人の勤務先の店の隅に設けられた四疊半位の仮設部屋に過ぎず、これに北浦親子四人が暮しているため狹隘で同居を続けるに耐えられぬので、已むを得ず、北浦と別れて以後、知合の訴外藤田シカの好意により、藤田が間借している部屋に同居させて貰つている現況である。その間生活費に窮して所有家屋二戸をその借家人に賣り拂い、以て僅に糊口を凌いで來つたのであるが、原告の所有家屋としては最早本件家屋を残すのみである。元來、この家屋は亡父が生前自家用として建てて残してくれたものであるところ、原告は疎開前この家に住み、甥訴外北浦秀一と同居してその世話になつていたこともあるので、被告から速に本件家屋の明渡を得て、これに居住し、且つ老齢の身であるから、再び北浦秀一と同居して自己身辺の世話をして貰い、以て老先短い余生を送りたいのである。このような訳で原告は、被告に対し前記窮状を愬え、再三本件家屋の明渡の交渉を重ねたけれど、被告は一向應じないのである。一方被告は相当の資力を有し、現に本件家屋の向側に所在する被告所有宅地に半本建築的建物を新築し、これに弟を住はせ、又他に借家数戸を有しているのであるから、本件家屋を明渡すことは難事でない。よつて原告は被告に対し本件家屋の明渡と、尚この家屋は昭和八年建築完成した建物であるから、本件賃貸借契約終了後である昭和二十四年五月二十七日以降家屋明渡済にいたるまで一ケ月金六十三円七十五銭の割合による損害金(約定賃料一ケ月金二十五円五十銭に昭和二十二年物價廰告示第五四二号による家賃の修正率二・五を乘じた金額)の支拂を求めるため本訴に及んだ次第であると述べた。<立証省略>
被告訴訟代理人は、原告の請求はこれを棄却すとの判決を求め、答弁として原告主張の事実中、被告がその主張の日本件家屋をその主張の如き定めで賃借し、居住していること、本件家屋がその主張の頃建築完成したものであることは認める。しかしながら被告は昭和二十三年十月頃、原告から二階の一室を貸してくれとか、或は同月頃本件家屋を買い取つてくれとかの申出に接したことはあるけれども、未だ解約の申入を受けたことはない。仮に解約の申入を受けたとしても、被告は本件家屋を賃借するまでは、この近くの自己所有家屋に居住しているうち、これが強制疎開家屋として除却されたので、他の家に移り住んでいたところ、同二十年三月頃、原告から「滋賀縣の知人方に疎開することになつたので、本件家屋を空家として放置して置くことができないし、疎開先から何時帰來するか、又帰らぬかも知れないから借りてくれ」と懇請されたので、何時までも借りられるものと信じて、原告の申出を容れて賃借し居住しているのである被告現住のこの家屋は、階下が二疊、二疊、六疊、階上が三疊、六疊の計五室であつて、これに被告夫婦、子供、母等計七名が住み、住居として手狹であるため、道路を距てた向側の空地に小さい物置を建て、漸く不自由を凌いでいる次第であつて、少しも余裕がないし、又貸家を所有しているけれども、何れも借家人が現住しているので、被告に於て、これを使用することができない。故に本件家屋を明渡すためには、家屋を新築するか、買い求めるか、或は貸家の明渡を受けるか、何れかの手段を採らねばならぬが、これには多額の経費を必要とするから資力のない被告として、かかることは到底不可能に等しいことである。若し被告が本件家屋を明渡すならば、家族七名が忽ち住居を失う悲境に陥入ることは明であり、その窮状は原告に比べて甚大である。これに反し、原告はその現住居を早急に立退かねばならぬ程に急迫した事情があるものとは認められないし、仮に原告のいうように原告が本件家屋に住み、且つ訴外北浦秀一の世話になる必要があるとしても、同訴外人を住はすために被告に明渡を求める如きことは明渡を正当づける理由とするに足らない。要するに被告に対する原告の解約権の行使は正当の事由を欠くものというべきであるから、前記の解約申入はその効なく、從つて原告の解約が効力を生じたことを前提とする本訴請求には應ずることができないと述べた。<立証省略>
三、理 由
原告がその主張の日頃被告に対し、本件家屋をその主張の約で賃貸し、爾來被告がこの家屋を賃借居住していることは、当事者間に爭がない。原告は自己使用の必要に迫られて昭和二十三年十月五日被告に対し、本件賃貸借契約解約の申入を爲したと主張し、被告はこれを爭うのであるが、原、被告本人訊問の結果によると、原告は同二十三年十月二十日頃被告方を訪問し、その妻に対し、本件家屋の明渡を要求したことが明であるから、右明渡の要求は、本件賃貸借契約の解約告知を含むものと解するのを相当とする。そこで原告の解約の申入に正当の事由があるか否かを、考えるのに証人藤田シカ、同北浦秀一の各証言と原告本人訊問の結果を総合すると、原告は当満七十三年に達し、同十七年頃夫寅吉に先立たれて以來、孤独の境涯にある老寡婦であつて亡夫が生前に自宅用として建てた本件家屋に独り住みいるうち、高齢であるため身の廻りの世話をして貰う必要上、甥の訴外北浦秀一と暫くの間同居していたことがあつたけれども、同訴外人が戰時中徴用せられたため別れて再び元の独り暮しとなつたこと、そうしているうち原告は同二十年春頃から空襲盛となり、その頃当局に於て、老人子供等を疎開させる方針を採つていたのと、近隣の者から原告の独り暮しを危險視して疎開するよう勧告を受けたので、北浦秀一と相談の上、滋賀縣所在の北浦の妻の実家に避難し、同時に住み慣れた本件家屋を被告に貸與したこと、そして原告は、終戰の翌二十一年一月疎開先から帰阪し、取りあえず北浦秀一方(吹田市田中町五五二番地ハツデン社葬儀社方)に寄寓したけれど、北浦のその住居は同人の勤務先の納屋を利用して設けた僅四疊半一室で、これに北浦夫婦と子供二人計四名が住んでいて、手狹で同居を続けることができぬので退去し、その後知合の訴外藤田シカの同情により同訴外人が間借している四疊半一室(大阪市住吉区長狹町五七番地山越義雄方)に藤田と同居生活していたけれど、同所も亦同二十四年五月家主がこの家を他人に賣却したため、余儀なく立退き、急場を凌ぐため、その頃附近の訴外山越ちえ方(二階住い)に移り同訴外人と同居しているが、現に安住できる住家が得られず困つていること、これより前原告は前記疎開先から帰阪後の同二十年十月頃から同二十三年十月二十日頃までの原告自ら又は訴外藤田シカと同道し、或は訴外野沢繁藏を介し、屡々被告に原告が寢るところもなく困つている旨窮状を愬え、一室丈でも明けてくれと懇請したけれども、被告が頑としてこれに應じないこと(原告から本件家屋の二階の一室の提供方の申出あつたことは被告に於ても自認するところである)而して原告は徒食の身であつて、本件家屋が唯一の所有財産であり、日々の生計は貸家二戸を賣却して得た金と、甥北浦秀一からの仕送りにより漸くこれを維持しているに過ぎず、被告から速に本件家屋を明渡して貰い、これに住み、且つその年齢健康(原告が耳が遠く日常生活に不便を來していることは、原告本人訊問の際当裁判所之を認めた)の都合上、單身居住に支障あるため再び甥北浦秀一一家と同居し、同人の世話になつて余生を過す考えでいることが、何れも認められ、他方証人梶山悦子の証言と被告本人訊問及び檢証の結果によると、被告が居住している本件家屋は階下二疊(玄関)二疊、六疊、階上が三疊、六疊の計五室、その外に炊事場、廊下、便所が附置せられ居り、これに被告夫婦、十二年を頭とする子供三人及び被告の母との計六人が居住し、被告は同二十三年末頃この家屋の西側道路越に相対して所在するその所有宅地上に費用約四万円を投じて間口三間、奥行一間半、建坪四坪半の平家一戸(所謂タタキ葺の屋根であるが、土台附周囲白壁塗戸締設備ある住家に使用可能なる建物)を建て、これにその弟を住はせていること、被告は月收一万円余を得ている俸給生活者であり、財産として貸家五戸(内一戸は被告の母名義)及び宅地約百二十坪(建物疎開跡にして現在空地)を所有しているが、右貸家は何れも借家人が現住していることが何れも認められる。そこで右認定の通り原告としてその年齢、境遇、経済的に無能力、本件家屋との從來の因縁、これを被告に貸與しなければならなくなつた事情及び現在安住し得る住家がなく困つていることなどから本件家屋に復帰したいとの念願をもち、被告にその一部又は全部の明渡を求めることは人情として已むを得ないものというべきであり、又被告として本件家屋の廣さと現住の家族数を対比すれば、その使用状況は決して余裕あるものとはいえないのであるけれども、住宅事情の逼迫した現在に於ては、互に讓歩し不便を辛抱して住生活の安定を図らねばならぬことは已むを得ないことである。而して被告本人の供述によると、被告の母は原告と永年に亘り親交を重ねていたことが認められるから、被告に於ても、原告の前記の如き身上にあることをよく知つていたことを察するに難くなく、故に被告に多少でも誠意温情があれば、原告が單身住むため、一室の提供を求められた際、これを寛容する。例えば家財の一部を被告が建てた向側の平家に移し、整理し、階下の六疊一室を原告に使用させることは、必ずしも不可能ではないのに、被告は無下に原告の右の懇請を拒否し、原告に比べ経済的に優位にありながら、原告の窮迫していることを知り乍ら之を看過し、最初明渡の交渉を受けて以來、既に約四年の久しきに亘る間、被告に於て他に家を探すなど、原告の当面している、住居についての苦悩を解決するために努力を拂つたとの形跡が少しも認められない。そこで單身寡婦である原告は、本件家屋中一室を得れば、一應住居にこと足るもののようにも考えられるのであるが、更に考え直してみるとそれは原、被告相互納得して被告が快く原告を迎え入れてこそ、原告も安んじて被告と同居し得るのであつて双方の感情が対立し、紛爭久しきに亘つた現在に於ては、到庭相互に円満な共同生活を期待し得ないことは明であり、ことここにいたつては原告がその扶助者訴外北浦秀一(及その家族三名)と共に本件家屋に居住することを要し、その爲めにはその一部にては足らず、本件家屋全部を使用する必要が生じたことは已むを得ないことである。
最後に、被告はその主張の如き経緯により本件家屋を借り受け、原告が当時本件家屋に帰來の意思のないことを表明していたと主張し、被告本人の供述によれば、右主張に副うものがあるけれど当時(昭和二十年三月)の我国情は戰況日増に惡化し、本土の空襲頻々として行はれ、国民誰一人として財産はおろか、明日の己の生命の安否さえ測り知ることができなかつたことを想えば、仮令被告のいう通りであつたとしても、被告も亦この家屋を何時迄も使用するとか又それが可能であると信じていたものとは考えられないし、これを以て原告の正当事由を否定することはできない。
右認定の事情のもとに於て、原告は本件家屋全部につき解約の申し入れを爲す正当事由があるものというべく、從つて原告が被告に対し前掲昭和二十三年十月二十日頃解約の申入を爲した日から六ケ月を経過した同二十四年四月二十日頃、本件賃貸借契約は終了し、それ以後被告は原告に本件家屋を明渡す義務があり、尚返還義務の履行遅滯により、原告に賃料相当額の損害を蒙らしめつつあるものといわねばならぬ。仍て原告が被告に対し、本件家屋の明渡し及び賃貸借終了の後である同二十四年五月二十七日以降、その明渡済にいたるまで前記の約定賃料一ケ月金二十五円五十銭に同二十二年九月一日物價廰告示第五四二号所定の修正率二・五倍(本件家屋が昭和八年に建築完成したものであることは当事者間に爭がない)を乘じた一ケ月金六十三円七十五銭の割合の損害金の支拂を求める原告の請求は、全部理由あるものというべきであるから、これを認容することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九條を仮執行の宣言につき同法第百九十六條を適用して、主文の通り判決する。
(裁判官 若木忠義)